愚痴 悪口 非難
ネット上でそれらの事をおおっぴらに書く人は少ないが、書き手側の
文章を公開する場がより閉鎖的になって来ると、それらを書き出す
人はどうしても増えてくる。
その対象相手がより絞られて来れば、より強い攻撃性を持っていれば
より対象者に近い(若しくは同一)相手側が逆に抱く感情も強くなる。
人間である以上負の感情を抱く事があるのは当然かなと思う。
世の中には何でもポジティブな人も居るけど。
私も良く上記の様な物を抱いて話をし、その事を指摘されたり
後で後悔したりする。
どす黒くてすみません。
出す時は出すし、出さない時は隠すんだろう、自分に対しては
そう思う。
少し話しはずれるのだが。
前にSNSについて少し触れた事があるのだが、自分は狭いコミュニティ
の中で行動する事をそこそこ苦手とする。
その理由は、コミュニティがより社会的に精錬されてしまうと、立場や
関係といった物が産まれ、閉塞的な環境の下に様々な文章が
生まれ続けるから。
社会的に強い立場の人間には追従が発生し、
コミュニティ外の利害がコミュニティ内に実直に潜り込む。
昔ある戦争ゲームをやってた際、知り合い同士で日記をやっていく
事が流行し皆がこぞって日記を書き始めた。
その日記にはひとつの機能があった。
『秘密日記』、リンク繋いだ者のみ読める内緒話。
そこには他国への負の感情、攻撃性が詰まっていた。
自分の知り合いが自分の知り合いを非難している内容、日記を見たら
それを見ないといけないというシステム。
暫くしその流れが止まらなかった為、自分は他国知り合いのリンクを
全部外した事もあったし、それらの人がmixiに移行するムーブメントを
起こした際も、かなり長い間拒否していたのを覚えている。
なーんて事はあったけど、今後他者に批判的な内容を全く
書かないとは限らない。
さて上記までの話を踏まえて。
ネット上に公開されている様々な日記って、
読み手のものだと思う?
書き手のものだと思う?
良くあるよね。
批判的な内容を含む日記で争論が起こった際の一コマ。
『ここは私の日記ですので嫌なら見ないで下さい』
当然書き手側の選んでいる書き方のシステムにも左右されるのだけど、
この一言って凄い面白い一言だと思う。
読む人が居るからこそ成立するけど、書く人の自由もまた大事であり。
読み手側の感情を考えない文章は悪なのか。
自由に書く事を制限される事が悪なのか。
読み手・書き手どちらを優先するかは人それぞれだと片付けようと
するなら、読み手もまた人それぞれである事を思い出さなければ
ならず。
どの様な意見があったとしても自分のスタイルを固持する事は、
我侭なの?権利なの?何なの?
なんて考えながら、我侭な私は書きたい様に書き、好きな様に
人様の日記を眺めて歩く訳です。
真っ黒ですから、心の中はいろんな事考えてますけど。
何が正しいかなんて判らない事は多いし、色々な側面を有するもの。
文章なんて、発言なんて、書いた通りの意味が全部かどうかは行動者
にしか判りません。
過激な発言は若しかしたらもっと別の意図があったり、反面教師
たろうとしているのかもしれないなー
そんな事を考えながら今日もふわふわと。
ふわふわと。
ネット上でそれらの事をおおっぴらに書く人は少ないが、書き手側の
文章を公開する場がより閉鎖的になって来ると、それらを書き出す
人はどうしても増えてくる。
その対象相手がより絞られて来れば、より強い攻撃性を持っていれば
より対象者に近い(若しくは同一)相手側が逆に抱く感情も強くなる。
人間である以上負の感情を抱く事があるのは当然かなと思う。
世の中には何でもポジティブな人も居るけど。
私も良く上記の様な物を抱いて話をし、その事を指摘されたり
後で後悔したりする。
どす黒くてすみません。
出す時は出すし、出さない時は隠すんだろう、自分に対しては
そう思う。
少し話しはずれるのだが。
前にSNSについて少し触れた事があるのだが、自分は狭いコミュニティ
の中で行動する事をそこそこ苦手とする。
その理由は、コミュニティがより社会的に精錬されてしまうと、立場や
関係といった物が産まれ、閉塞的な環境の下に様々な文章が
生まれ続けるから。
社会的に強い立場の人間には追従が発生し、
コミュニティ外の利害がコミュニティ内に実直に潜り込む。
昔ある戦争ゲームをやってた際、知り合い同士で日記をやっていく
事が流行し皆がこぞって日記を書き始めた。
その日記にはひとつの機能があった。
『秘密日記』、リンク繋いだ者のみ読める内緒話。
そこには他国への負の感情、攻撃性が詰まっていた。
自分の知り合いが自分の知り合いを非難している内容、日記を見たら
それを見ないといけないというシステム。
暫くしその流れが止まらなかった為、自分は他国知り合いのリンクを
全部外した事もあったし、それらの人がmixiに移行するムーブメントを
起こした際も、かなり長い間拒否していたのを覚えている。
なーんて事はあったけど、今後他者に批判的な内容を全く
書かないとは限らない。
さて上記までの話を踏まえて。
ネット上に公開されている様々な日記って、
読み手のものだと思う?
書き手のものだと思う?
良くあるよね。
批判的な内容を含む日記で争論が起こった際の一コマ。
『ここは私の日記ですので嫌なら見ないで下さい』
当然書き手側の選んでいる書き方のシステムにも左右されるのだけど、
この一言って凄い面白い一言だと思う。
読む人が居るからこそ成立するけど、書く人の自由もまた大事であり。
読み手側の感情を考えない文章は悪なのか。
自由に書く事を制限される事が悪なのか。
読み手・書き手どちらを優先するかは人それぞれだと片付けようと
するなら、読み手もまた人それぞれである事を思い出さなければ
ならず。
どの様な意見があったとしても自分のスタイルを固持する事は、
我侭なの?権利なの?何なの?
なんて考えながら、我侭な私は書きたい様に書き、好きな様に
人様の日記を眺めて歩く訳です。
真っ黒ですから、心の中はいろんな事考えてますけど。
何が正しいかなんて判らない事は多いし、色々な側面を有するもの。
文章なんて、発言なんて、書いた通りの意味が全部かどうかは行動者
にしか判りません。
過激な発言は若しかしたらもっと別の意図があったり、反面教師
たろうとしているのかもしれないなー
そんな事を考えながら今日もふわふわと。
ふわふわと。
コメント
特に、こういうものは某スレ程じゃないけど、匿名性があるので
「何をしてもいい」という考えになりがちですが。。
ルールがないに等しいので、個人個人の手に委ねられているんだと思います。
そこが個々人によって違いがあり、それが上記のような状態を生み出している。と思います。
まぁ日記だから、発信者が書き手になるから、、Blog内容そのものは書き手色に染まってるんですけどねぇ。。
なぁんて、、ふわふわと。。ふわふわと。。
逆に読み手がそれを読んでどう思うかも自由だと思う。
私は好きなことをそのまま書く。
読み手がどうこう思おうがそれはその人の自由だから。
でも他者の意見を鵜呑みにしてまるで自分の意見の様に
言ったりするのは苦手というか嫌いですね。
基本的に協調性のまったくないマイペースな人間なので。
他人は他人。
自分は自分。
大体の場合、書き手側が読み手側を意識して居ると思うのですが
閉鎖的なコミュニティの場合それがより顕著になって行く事も
あり、書き手側が読み手側に染められる事も多いですよねー
窮屈な物の言い方や我侭な物の書き方が増加するより、
自由奔放に書く人ばかり残れば良いなと思います。
ふわーり
>すみこ
Yes, this is my way
godspeed.
感情を隠さないでかくとどうしても衝突したりする。それならもとから発信しないほうがなんぼかマシだし実際あのときあれ書かなくてよかったーとほっとする。中身がない文章ってそれだけじゃあほっぽいけど、特定の一人や二人だけに見せる文章じゃないならむしろ十分なんじゃないかなと思う。
こんなふうに自分の考えを書くのてすごいリスクがある。不特定多数に発信するものだから。
ていうか、そもそも、相手と自分の考えなんて違っててもともとであたりまえなのになんでそんな衝突するんだ?と思う。持ってる意見が180°違っても友達でいるにはたいした問題じゃないはず。
衝突するのは悪くないけど、それだけで相手を嫌ったり他の面もってきて攻撃してるのは、他人まきこむのはいかがなもんかと思う。まきこむつもりがあろうとなかろうとここはネットなんだから、それをつねに意識してれば内容も行動もかわる。ごく一部だけど、いちに自分!にに自分!さんしがなくてごに自分!!てしかみえないんですよね、文章が。
何を書いても自由だと思う。ただそれを見た周囲の自分に対する思いとか印象とか距離がかわるだけで。
まぁ、こんな文章かきながら自分でもいろいろ反省させられます。